じっくり経歴です

なんてことでしょう

『じっくり経歴』にまで!おいでくださって!感激です!

このページにはわたしの『育ち』『出産』『子育て』を書きました。子育てに関する情報を見聞きすると『うずうず』するようになったわたし。その理由は育った環境や出産、自分の子育てにあります。

50年以上、ずっと持ち続け引きずってきた事。今の生き方にまで関係しているなあと改めて感じていることを書きました。長いです。ほんとに長くてごめんなさい。

生まれも育ちも九州

父親の仕事の関係で2〜3年ごとに引越ししていました。

たまたま熊本県にいた時に生まれ、長崎と沖縄以外は全部住んだ事があります。児童・学生期には引っ越すたびに『訛りや方言』をからかわれるのがいつものこと。それが嫌で、新しい土地の言葉をひと月かからないうちに覚えました。

まぁ、それでもちゃんと『バカ男子』にはからかわれるんですけど。

しかし『あっちこっちの方言』を話せる能力はあったのに。あれほど勉強した英語が話せないのはなぜなのか。納得がいきません。クヤシイ。

両親は子育てに向いていないタイプ

わたしの両親はどちらも鹿児島県出身。典型的な男尊女卑家庭に育った人たちです。

男尊女卑の家庭とは。

大河ドラマで描かれることの多い『江戸時代』『幕末・明治時代』のような考えが行き渡っている家です。つまり「お父さんエライ!長男大事!オンナコドモは召使い」が当たり前。

そのため、わたしの両親は現代の子育てに向いていませんでした。

そもそも家庭の成り立ちだって不自然なのです。

昔ばなし:とりあえずあてがう物語

むかしむかしあるところに『出産によって妻が死んでしまい、0歳児を抱えて困り果てた男やもめ(わたしの父)』がいました。

0歳児は父の『大事な長男』です。ちゃんと世話する母親を見つけなければなりません。

親戚たちは「長男どん(わたしの父)に苦労はさせられぬ!」と後妻を探していました。

そこに『嫁ぎ先に問題が発生し実家に帰ったムスメ(わたしの母)』が見つかったのです。

新郎新婦の相性なんか考えている場合ではありません。

『とりあえず』結婚してしまいました。

それがわたしの育った家庭の始まり。

その0歳児が3歳になる頃生まれたのがわたし。父・母(後妻)・兄(長男/父の連れ子)合わせて4人家族になりました。

わたしの母

わたしの母は『武士の家系』である事が自慢の人です。母親(わたしの祖母)から、とても厳しく育てられた事が心の支えでした(2018朝ドラ『まんぷく』にも「私は武士の娘です!」が口ぐせの人がいました)。

想い出話を聞くと、厳しいと言うより「虐待ですね」と言われるようなことをされて育った母。それでも母は『私は武士の家系』と言うプライドだけで耐えてきました。

『お父さん(わたしの祖父)が早くに亡くなったからお母さん(わたしの祖母)も1人で子育てせねばならず大変だった』と、苦しい思い出を美化補正だってできたのです。

そんな武士プライドだけを心の支えにすると「人様に後ろ指を刺されるような事があってはならぬ」という事が、子育ての中心になります。

『継母が夫の連れ子(わたしの兄)にキツく当たった』などと世間様に思われるようなことがあってはならない!と体面を重んじるのです。

わたしが子どもの頃「妹(わたし)は年上の言うことに逆らってはならない」という謎ルールが敷かれていました。

例えば兄とケンカをし「お兄ちゃんが○○したー(泣)」と母に言いつけに行くと「言いつけに来るとは卑怯者」と叱られるルールです。悲しくて玄関の隅で泣いていると「逃げ隠れをするな!」と追い打ちをかけられます。

「いい子でなければ我が家には要らぬ」いつもこのままの口調で言われていました。

武士か!

わたしの父

父は。

威張って仕事に行って威張って帰ってきて、威張って飲んで威張って風呂に入って威張って寝ます。まるで、小学生の夏休みの日記のような毎日を送っていた人です。

家庭でも家族を褒めたり、世の中のことについて話したりすることはありませんでした。ただ一度だけ、わたしが妊娠し『性別が男の子だったこと』を報告した時に「でかした!」と褒めたことがあります。

『でかした』って。

殿様が家来に向かって言うようなセリフに「平成を生きてる?」と呆れたのを覚えています。

プログラムの専門学校へ

わたしは学生時代、古典が好きでした。特に清少納言が書いた枕草子がお気に入り。

まるで景色が目の前に広がるような、研ぎ澄まされた言葉選びにうっとりしながらなんども読み返したものです。

とにかく早く大学に行きたかった。「大学で古典をもっと深く知りたい!もっと親しみやすい現代語訳にして、古典好き仲間を増やしたい!」とワクワクしていたのです。

そんな親元をしょんぼりと出たのは18歳の時。大学は不合格でした。失意の中、目の前真っ暗自暴自棄です。

父は、そもそも「女子に大学なんぞ不要」の人でしたし、浪人なんか選択肢にありません。

古典研究の夢もあっけなく散りました。

そして『仕事に結びつくことを勉強しなければならない』という気持ちだけで、当時最先端の『プログラミングを学ぶ専門学校』へ行くことにしたのです。

『COBOL(コボル)』『FORTRAN(フォートラン)』『BASIC(ベーシック)』って聞いたことありますか?初めてづくしの内容で目を回しながら習いました。

あなたがもしITエンジニアさんと話す機会があったら、これらの古―い古―いプログラム言語名を言ってみてください。

「ジュラ紀か!」と突っ込んでもらえますよ。

プラグラムを習ってわかったことは「自分には向いてない!」ということでした。楽しくないし、全く達成感が持てません。(行く前に分かるだろう?というご意見は受付箱がいっぱいです)

台本を書く仕事がしたい

バブル景気の直前、専門学校の卒業が近づく頃。クラスメイトはシステムエンジニアとして次々に就職が決まっていきました。

わたしはシステムエンジニアとして働いていけるのか?働きたいのか?答えは『NOOOOOOOOOO!』です。

当時、専門学校へは電車に乗って通っていました。到着駅から歩いて10分くらい。道沿いには、会社がいくつも入った大きなビルや商店街もありました。

その中の看板が気になっていました。新しくできたケーブルテレビの会社です。

テレビ関連の仕事について、当時のわたしは『カメラマンと台本を書く人がいる職場』ということだけ知っていたのです。

古典の現代語訳を出版する夢は叶わなかった。でも清少納言のように『文章を書きたい』。台本を書く仕事ができるんじゃないだろうか・・・?

システムエンジニア職にきっぱり別れを告げたわたしは、学校に頼らず自分で就職先を探すしかありません。

「ごめんください!仕事ありませんか?」

ケーブルテレビ会社の大きなガラスのドア。グイッと押し開けてひと声。これがわたしの就職活動でした(アウトサイダー過ぎ)。

「妙なやつだがガッツはある」データ入力のアルバイトをさせてもらえることになりました。そのまま数ヶ月かけて『上の人』に顔と名前を覚えてもらって。

屋根に巣食うスズメのように入社してしまいました。

世の中にはいろんな人がいる

田舎生まれの田舎育ち。夕方6時に、ほとんどのお店が閉まる町で高校を卒業したわたしです。知らないことばかりの社会人生活が始まりました。

『超大手のテレビ局から来たベテランディレクターおじさん』の弟子になり。「全然なってない!」と怒られ。

『撮影』『音声』『照明』『ロケ』『編集』『MA(ナレーションやBGMなどの技術作業)』『著作権』『撮影許可の取り方』『コンテの書き方』『プレゼンの方法』。

「そんな単語聞いたことない」ような仕事や経験ばかりでした。

それでも文章やイメージを映像化する基本をじわじわと覚えていきました。そして系列の制作専門会社へ移動を希望し、本格的に仕事をするようになったのです。

その頃出会った忘れられない人たち。

今も第一線で活躍している、センスの塊のようなカメラマンさん。

どんな変な形のものでも『変な写り込みも影も出さず、アウトラインくっきり見えるセッティング』にしてくれる照明さん。

「ここ、7秒でお願いします」「ハーイ」でナレーション原稿をジャストタイムで収めてくれる天才的なナレーターさん。

「こんな人が世の中にはいるんだー(ポカーン)」です。自分の知らない世界がどれほど大きく広いか、想像もできません。自分の狭い世界だけが正解じゃないことを思い知らされた経験です。

調べてまとめて、わかりやすく伝える仕事

番組など、動画作品の制作で『ディレクター』とか『監督』などと呼ばれる仕事の真髄は、まとめることです。

わかりやすく。見て、聞いた人が納得いくように。

台本には、自分の知らないことを適当に書くわけにいきません。だからとことん調べるし、専門家にも確認します。自分がわかっていないと、まとめようもないですから。

仕事を通して『調べること』『まとめ方』『根拠の確認』『表現に誤りはないかチェックすること』などなど、たくさん経験しました。ディレクターとして働いた13年間は、私の『子育て情報を調べる・まとめるスキル』の根っこでもあります。

無排卵月経は気付きにくい

結婚したのは28歳の時。職場結婚でした。

お互い仕事中心ではあったけれど、結婚後5年間も妊娠しないのはちょっとおかしい。産婦人科へ行ってみると、診断は『無排卵月経』でした。

普通の生理と違って排卵がないのです。でも普通に生理周期で出血があるので全然気づいていませんでした。

不妊治療のとっかかりは、まず子宮周りの各部に異常がないかを調べます。

そして「どこにも異常はないね、では排卵誘発剤の処方を・・・」と医師から提案されたタイミングで妊娠。ちょうどその頃仕事を辞めていたので、ストレスから解放されたのが良かったのかもしれません。

切迫早産

仕事を辞め妊娠したわたしは、親元を出て初めて『1日3食・規則正しい生活』をするようになっていました。

初めての『毎日お散歩生活』。『お酒を飲まない健康的な食事』。タバコの煙からも逃げ回り、夜更かしもしません。

しかし突然、出血しました。

夏の日曜日でしたが、オットは趣味のソフトボールチームの試合に出かけて留守です。

出血がどれだけ危険なことか想像もせず、ただ不安になって友人宅へ電話しました。

「婦人科へ行きたいんですけど、連れて行ってもらえませんか?」たまたま電話に出てくれた友人のお母さんに運転してもらって、かかりつけの産婦人科へ行きました。

医師が診察した時には『子宮口全開大』(しきゅうこう/ぜんかいだい)。普段の生活で出ないワードすぎますが「今さっそく生まれます」ってこと。

その3日ほど前に『お腹が張るので心配』と検診を受けて「大丈夫」と言われていたにもかかわらず。産婦人科は大騒ぎです。すぐに救急車を呼ばれ、乗せられました。

赤ちゃんを諦めるか/お腹を切るか

「ちょうど未熟児さん用の呼吸器を外せそうなお子さんがいます」

救急隊員からの要請に、受け入れOKの返事をくれた総合病院がありました。

当番医は小柄でシャキシャキした女医さん。「赤ちゃんあきらめるなら、下から出します。帝王切開で出すなら助けられる可能性は30%。ただ障害が残る可能性もあります。どうしますか?」

A:通常の出産方法だと赤ちゃんは死亡する。

B:お腹を切れば助かるかもしれない。でも赤ちゃんが助かる確率は30%しかないし、障害が残る可能性もある。お腹に傷も残る。

AかBか?今すぐに選んで・・・ってことです。

ストレッチャーの上でパニック状態でしたが「どんな子でもいいです!赤ちゃんだけは助けてください!」と、何度も叫んだことだけはっきり覚えています。

帝王切開

駆けつけてきた夫に見送られて、帝王切開のオペ室に入りました。

まぶしいライトの中、仰向けに寝たお尻の下が気になります。なんだかぺちょぺちょして気持ち悪くて。「あの、お尻の下が」と先生に声を掛けました。

先生は体にかかっていた布をめくって「!」という反応。大出血を起こしていました。

「麻酔!もう(お腹を)切るよ!」その先生の声を最後に聞いて意識が飛びました。

夢の中で、わたしは大きな赤いポピーの花の中にいました。花の真ん中で、なぜか赤ん坊と手を繋いでいます(メルヘンか)。

ポピーには血が巡っていて、赤く見えるのです。花びらの縁がドクンドクンと脈打っていて、ものすごくきれい。まるで夢のよう(夢です)。

「あー。目が覚めたらこのきれいな景色をオットに話して聞かせよう」そう思って眺めていたら、目が覚めました。

わたしは『25週と4日で生まれた未熟児』のお母さんになっていました。

800gの赤ちゃん・超低出生体重児

息子は仮死状態で生まれた直後、集中治療室へ入院しました。

新生児用の集中治療室は『NICU(えぬあいしーゆー)』と呼ばれます。

Nは『New born』、新生児のこと。Nの集中治療室(ICU)だからNICUですね。

面会に行った時「今は未熟児とは言わないんですよ」と説明されました。

息子は800g未満。小さい赤ちゃんの中でもスーパー小さいので『超低出生体重児(ちょう/ていしゅっせい/たいじゅうじ)』です。

片手に乗るくらいの大きさの息子。

25週はまだ皮膚も完全にできていない時期だと初めて知りました。息子の胸はツルンとしてオッパイも無し(入院中にだんだん出来てきました!)。

お腹の皮膚も薄くて腸が透け、赤いような青黒っぽいような色です。

なんと言いますか・・・言い方が不謹慎ですが、ミミズの表面っぽい感じ(他にいい表現がなくてほんと心苦しい)。

小ぶりなゆで卵くらいの頭。手の平の部分に収まる胴体。そこに大人の人差し指くらいの太さの両腕と、親指の太さの両足がピョコンピョコンと付いていました。

肺が十分に膨らんでいなくて、自分で呼吸はできません。人工呼吸器が命綱です。「なんとか命だけは助かってほしい!」毎日そればかり祈っていました。

衝撃を受けた【虐待・愛着】という言葉

800gより小さく生まれた息子ですが、黄疸や未熟児網膜症の治療をしながら少しずつ大きくなっていきました。

「死んでしまうのではないか?」という恐怖が、だんだん薄れていく毎日。「退院の日はいつかな?」と楽しみが増えていく嬉しさ。

ところがそんなウキウキのある日。『ハイリスク児』と『虐待』という言葉がセットになったパンフレットを見つけたのです。

『ハイリスク児』とは生まれて間もなく死んでしまったり、病気になる確率が高い子どもという意味です。そしてそんな赤ちゃんを持つ母親には子どもを虐待するリスクもある、というようなことが書いてあったのでした。


NICUに入院した子どもたちは特に虐待のハイリスク児であることが知られ、特にその40%は低出生体重児であること、また約70%は先天異常や発達の遅れなど医学的問題を抱えた子どもに起きているということが報告された (1)


低出生体重児は家族と離れてNICUで養育されることから愛着の形成につまずき虐待に至る(略) (2)

わたしは『自分が息子を虐待する可能性がある』と深刻に受け留めました。焦ったわたしは、たくさんの本を集めて調べ始めたのです。

愛情ホルモン危機

調べるうちに、『親が子どもを愛おしく思う気持ち』や『妊娠から出産』『母乳を出す仕組み』全般にホルモンが大きく関わっているとわかりました。

ホルモンは赤ちゃんを抱いたり見たりすることも刺激になって働きます。

(人工呼吸器に繋がれているから抱っこできないよ?見るのも面会時間だけだよ・・・?)わたしのホルモン、めちゃくちゃ危機。崖っぷちです。

今は抱っこできない。でも退院後に抱いて母乳をあげることで、そこから親子の絆を作れるのではないだろうか?せっぱ詰まった思いでした。

母乳も止まる?

おっぱいだって、赤ちゃんが吸わないと出なくなります。

『飲まないの?じゃあ作らなくてもいいよね?』と脳が判断し、母乳を作る仕組みを止めてしまうのです。

看護師さんにも「退院したあとも母乳育児をしたい」と相談しました。

「頑張れたらいいですね。でも・・・ほとんどの人はおっぱい止まっちゃいますしね・・・続けられると本当にいいんですけど・・・」看護師さんは心底気の毒そうな顔をしていました。

「以前ひとりだけ赤ちゃんが退院するまで出し続けた方がいましたが、なかなか難しいと思います」

自分の脳をだます

私の焦りを理解し、優しく寄り添うように答えてくれた看護師さん。そして、わたしは俄然燃えました。

「人様にできてわたしにできぬワケがないッ。」(武士か)

息子の写真を撮り、それを肌身離さず『抱いて』『見て』『触って』過ごしました。

「母乳いらないんだよね?」と脳が勘違いするのなら。「逆にわたしが脳をだましてやる!」と考えたのです。

全く根拠もない行動でした(科学的根拠大事だぞ!)。

が。おっぱいは出続けました。わたしの脳はだまされやすいタイプなのかもしれません。

おっぱいを少しずつ絞ってパックに入れて冷凍し、面会のたびに持っていきます。看護師さんから「大事な初乳も飲ませてあげられたし、免疫力もつきますよ」と喜んでもらい、とても嬉しかったことを思い出します。

子育てに興味がわいてきた

入院から3ヶ月後。息子は医師や看護師さんたちの手厚い看護を受けて3000gにまで成長しました。自分で呼吸もできるようになり、無事に退院できたのです。

切迫早産という思いがけない経験。息子は命の危機を経験しました。その時に身近に感じた『虐待』と『愛着』という言葉。強烈なインパクトがありました。

『愛着』という親子の結びつきがどれほど大事かわかったこと。脳と体の仕組みを逆手にとって(?)母乳を保ったこと。

もし息子が順調に生まれていたら。

「虐待?わたしはそんなことしないし」と、自分の小さな不安・無知を無視したかもしれません。

子育ての理論にも向き合おうとしなかったかも。自分の常識や慣れに逆らうのはなかなか困難です。考え方のクセを変える練習や『自分を客観的に見直す』奇跡のようなタイミングが必要です。

でも『息子との親子関係に危機がある』と、ショックを受けた事は結果的によかった。『愛着』という親と子どものつながりや、体・脳の仕組み・人間の発達に興味を持つ強烈なきっかけになったからです。

子育て情報マニア

『虐待』『愛着』という言葉に強く反応したこと。きっとお分かりでしょう。わたしは『十分愛され安心して育った』という実感がありません。「こんな子育てをしたい」というお手本がなかったのです。

「いい子でなければウチには要らない」と、母からなんども言われました。でも『いい子とは何か?』という具体的な教えはないのです。

ただただ『いい子であれ』と要求されるのは、子どもにとって不安でしかありません。子どもなりに考えて『いい』と思ってやったことも、大人の都合に合わなければ叱られる。「何をやってる!」と突然大声をあげられるのは怖い。だからビクビク生活することになります。

理由や明確なルールがない家庭では子どもは混乱するばかりです。親の許しがないと、何も自信を持って始められないなんて。

わたしは『自分が育てられたようには息子を育てたくない』という気持ちでいっぱいでした。

3歳までは別人になる

子育ての理論や過去の例などを調べるうちに、親が子どもに対する姿勢の基本がだんだんわかってきました。

『ありのままの子どもを認める』

『失敗をどんどんさせて自分で学ばせる』

『自分で感じる・考える時間を保証してあげる』

「これが研究や過去の経験・実験から得られた『子育ての基本』なのか!」知れば知るほど、自分の育てられ方と違います。大きなショックを受けました。

自己流子育てをしちゃダメだ

わたしが培養してきた『親に逆らわない』『親に気に入られるように行動する』性質は、骨の髄まで行き渡っています。

反射的な考えや行動は、高い確率で『理想と真逆』になりそう。

困ったわたしは就職した時と同じく、アウトサイダー的行動を選びました。

自分とは真逆だけど『理想の母親イメージ』はあったんです。そのイメージを心の中で仮面にして。3歳までを目標に『こんなお母さんだったら嬉しいな仮面』をかぶることにしたのです(呆れていますね?)。

そして「これは息子ではない。サイズが小さいオットなのだ」という設定にしました(二度とこのブログを読まないぞと思いましたね?どうかお元気で)。

なりきり設定はお芝居のようなもの

オットはわたしの足りないところを補ってくれるパートナー。尊重する相手です。

もしわたしの提案に「それは嫌だな」と言ったら「どうして?」と聞きます。「わたしの言うことを聞きなさい!」とは言いません。

相手を赤ちゃんだ、子どもだと考えるからいけないんです。

失礼な態度を取ったり、無茶を言っても『親だから』と深く考えない。他人に言わないようなことを子どもには平気で言えてしまう。わたしの両親がまさにこれです。

だったらオットに対するのと同じようにすればいい。相手の考えや行動を尊重する気持ちで『チビオット』を育てていこうと考えたのです。

『相手を思いやる劇場』を演じている感じですね。

 主演:わたし

 役柄:貧しいながらも『チビオット』の意思を尊重しながら楽しく暮らす主婦

人は簡単に変われません。でも「変わりたい」「こうありたい」と強く願うことは無駄じゃありませんでした。

息子の行動を余裕を持って観察する事ができたし、面白がることもできたんです。

『親の余裕』『観察』『興味』『共感』。これらは子育てに必須だと思います。

身体障害

赤ちゃんは生まれて半年もすればお座りができるようになるもの。でも我が家の息子は7ヶ月になっても自分で座れませんでした。早産の3ヶ月を計算に入れてもやはり遅い。

心配で心配でたまりませんでした。でも病院で「個人差もありますから、もう少し様子を見ましょう」と言われたことを頼りに、気にしないようにしていました。

そのまま様子を見続けて1歳。それでも座れません。ハイハイもできません。もうすぐ2歳になる頃になっても同じです。

そーっと、ゆで卵を立てるように注意深く。息子を座らせてから、一瞬手を離して写真を撮る。倒れる前に急いで抱き上げた時の写真が、今も残っています。

「ほら、座れるようになったね!」と息子に頬ずりしたわたし。障害を受け入れていない人のお手本のような行動ですね。

切迫早産でオペ室に入る時「どんな子でもいいです、命だけは助けてください!」と叫びました。自分で調べた子育ての勉強で『ありのままの子どもを認める』ことが大事だと知っていました。

でも息子の障害を受け入れることは、そう簡単ではなかったのです。

真っ暗な部屋に手探りで入っていくような気持ちで、リハビリ施設に通うようになりました。

リハビリの毎日

2歳直前になってもお座りもハイハイもできない息子。障害を受け入れられない母親。そんな母と子で通い始めたのは、体や発達の専門家がたくさんいるリハビリ施設です。

ここで学んだことは多いです。中でも『子どもの努力』に対する自分の考えが根っこから変わった出来事がありました。

私は息子にマナーや振る舞いもきちんとできるようになって欲しかった(武士っぽさのなごり)。

給食時間に「姿勢をまっすぐね。身体を起こして」と、しょっちゅう声かけをしていたのです。それがあまりにもしつこかったのでしょう、同じクラスの子のママが声をかけてくれました。

「ちょっと声かけすぎじゃない・・・?息子くん頑張って上手に食べてるよ?」

でも、そんなに気になるんだったら相談したらいいんじゃない?と、担任の先生を呼びに行ってくれました。

先生はわたしの話をじっくり聞いてくれました。そして「細やかに注意するより『姿勢良く座れるように身体を支えてくれる椅子』を作ってあげてはどうですか?」と提案してくれたのです。

今までわたしの中にはなかった発想!

理想や常識に合わせて『頑張る』じゃない。『無理なく頑張れる方法を手に入れる』!!

♫チャラララッチャッチャッチャーン!

(発想転換の指輪を手に入れた、的なアレ)

わたしの古い常識を、クイッ◯ルワイパーで拭ってくれた先生。ありがとう!先生を呼びに行ってくれた友達、本当にありがとう!!

この出来事は強烈な経験でした。

子どもに口やかましく『努力を強要する』のではなく。望ましい状態を続けていられるように『大人が』工夫するーー。

子育ての基本的考え方だといまでも思っています。

そして3歳になる頃の息子は、あいかわらず歩けず立てませんでした。でも優しくよく笑い、自分の考えや意見をはっきりいう明るい子になっていました。

自分で決められる人に育てよう

全身に麻痺があり、小学校入学時ですら連続100メートル歩くことも難しかった息子。どう考えても「いざとなれば仕事を選ばず生きていける」という体ではありません。

「親は先に死ぬんだ。息子はそのあとどうやって生きて行くんだろう」

最初、小さく生まれた息子を『幸せにしてやらなければ』と必死な気持ちで育て始めました。

でも、息子をいろんなところに連れ回すうちに、あちこちで可愛がってもらいました。

「障害があっても息子かわいいじゃん?『あの時死んでたら』と考えたら、今生きてるだけで大感謝の丸もうけやん。」

そんな風に言った夫から「今を楽しんでいいんだ」と教えられました。わたしの悲壮感はだんだん薄れていったのです。

夫は歩けない息子を抱いて、どこへでも連れて行きました。

気兼ねのない取引先との飲み会に、子連れ参加したことさえあります。

飲み会の大人たちは、息子に『人に言えない失敗をこっそり打ち明け』てくれたり、『大人だって悔しくて悩む時もあるんだぜー』なんて、真剣な話をしてくれたりすることだってあったんです。

いつの間にか、息子は驚くような社交性を身につけました。親がやったこともないことに興味を持って仲間を作ったり、楽しんだり。

『息子は独りじゃないし、自分の世界を大切に面白がって生きている』

嬉しい発見と気づきでした。息子は息子の『興味や楽しみを選んで』いけばいい。

『遺産(無いけど)を与える』『いい学校に行く』『大きな会社に入る』そんな親世代の古い考えは、保証のない未来に備えることにならない。親と子それぞれが考える『幸せ』は違うんです。

息子を幸せにしてやらなければならないという考えは、私の中から消えてなくなりました。

『息子の幸せは息子が決める。自分で決められる人に育てよう』

これが子育ての大きな目標になりました。

禁句「なんでできないの?」

息子は日常生活にも不自由があります。思い通りに体を動かすことが苦手。特に『細やかに』『ゆっくり動かす』が難しい。

何かに集中しようとすると脳からの運動信号がたくさん流れるので、どんどん体が硬く緊張していきます。

文字を書くことや考えることは、筋肉をさらに緊張させます。疲れもたまります。体育もほとんどできません。思うように体を動かせませんから、かなり動作がギクシャクします。

幼小中高と通う間、なんども悔しい思いをしたはずです。苦しい日もあっただろうと思います。

切なくて息子に言ったことがあります。

「かあさんの脳みそとか、手足をあげられたらいいのに。そしたらみんなみたいに走れるし、自転車にも乗れるよ?」

息子は「かあさんの脳みそ?うわーそれはツライねー」と笑っていました。

(なぜだ?遠慮しないでいいんだぞ)

「障害があって自分やけん、これで生きていくのがいいんじゃない?」と、自分を否定しないで成長してくれました。

息子にはできないことがたくさんあります。

でもそれは彼にとって『できるようになりたいこと』ではないんです。できたら便利だけど、できなくても大丈夫。

『すみませんが、お手伝いいただけますか?』『助かりました。ありがとうございます』と目的達成できた時にお礼が言える。

それよりも『心からできるようになりたいこと』がたくさんある方が、もっと人生が豊かだし大事なんです。

幼い頃、息子は工作が大好きでした。不自由な手で紙を折って切って。テープで留めて。

でもセロテープが上手に切れません。ベタベタに絡まってウギャーッとかんしゃく。よく「切りたいー!切れないー!」と泣き叫んでいました。

でも手伝いませんでした。本当に手伝わなくてよかった。

時間はかかりました。でも「難しいね、面白いは難しいもんね」と、こっちも半泣きで励ますうちに上手になりました。

鼻歌まじりで、片手で一気に何枚もセロテープを切り取って得意な顔。ますます工作好きになったのです。

やりたいことは、誰がなんと言おうとやり続けるのが子どもというもの。大人はその子なりのやり方をペースを大事にしてあげたい。チャレンジの邪魔をしないよう、気をつけるのがいいなあと思います。

「なんでできないの?」と子どもに言いたくなったとき。

きっとそれは子どもにとって『やりたいことじゃない』か、または『やりたいけど、まだやれるようになってない』だけなんじゃないかと思います。

ところでわたしは「なんでできないの?」をよく自分に言います。

パソコンでショートカットキーがなかなか思い出せないときなど「ったく!どれ?これ?んもう!なんでできないのぉ!」とよく使っています。

サヨナラ&サンキュー息子

800g未満の小さい赤ちゃんだった息子。

体は不自由なりにスポーツに興味を持ち、中学では個人競技の運動部に所属しました。公式戦で1勝したのもいい思い出です。

親の手助けは、もう必要ありません。息子は遠い外国で一人暮らしをしながら、好きな勉強をしています。

一方わたしは息子がそばにいなくて少し(かなり)困っています。

「ねーねー、パソコンが何か『選べ』って表示が出たけどどうなってるの?!Yes/Noどっち?スキップしていいの?」

「ねーねー、オンライン講座の動画見たいけどURL踏んでも始まらないよー!どうなってるの?!」

「ねーねー、これ英語で書いてあるー。読んでー。わたしの和訳これで合ってる?あと、この論文どこで探したらいい?」

・・・・とまあ、無料秘書がいなくてほんとに不便。息子は母親の「ねーねー」から解放されて、さぞかしホッとしているでしょうけど。

自信無さすぎて感想が言えない

今でも思い出します。

幼い息子を抱っこして散歩していたとき、真っ赤な夕焼けを見ました。その素晴らしい色を見ながら「綺麗だね」という言葉を言えませんでした。

「綺麗かそうでないか、自分で感じて決めればいい。『きれい』を押し付けちゃいけない」と考えて、言えなかったのです。

今思い返すと「綺麗だね」は自分の気持ちなんだから、強制ではありません。正直に、思った通り言えばよかったんです。

「Hey!you!子育て恐れすぎだYO♪」と、当時の自分に言いたい。

あまりにも自信のなかった自分が情けない。ただ、それくらい自分の子育てスキルを信用できなかった。

20年後、息子はちゃんと独り立ちしている。だからあんなに心配しなくてよかったのに。自分で調べて実行した子育てが、ちゃんと実を結んでいるのに。

そう考えると今も『良い子育て』について情報を集めることがやめられません。『根拠のある情報』は誰でも分けてもらえる宝物なんです。

一時期、子育ての理想とほぼ一致する乳幼児教室の講師にもなりました。

そこで出会ったママたちは子育てに希望を持ち、同時に悩みも抱えています。

相談に乗ったり、時には家族会議に参加してアドバイスしたり。『情報』という宝物で、少しでも役に立てたのが嬉しいです。

子育て情報マニアになってよかった

今子育て中のママたちには、楽になってほしい。

世の中にはたくさんの研究者がいるし、子育てについてアドバイスしてくれる書籍や論文も山ほどある。そういう手助けをどんどん利用したらいい。

今、そばで泣き叫んでいる幼いお子さんをどうしていいか困っているママ・母親・パパ・父親の皆さん。もっと楽になっていいんですよ。

楽になればなるほど、子どもはのびのびします。のびのびすると、いろんな形で『伸び』ます。

でも子どものことが『わからない』と『迷う』し『困る』。だから『イライラ』するし『疲れる』し『自己嫌悪』で『悲しい』。

そんな子育て中のあなたを助けたい思いで、このブログを書いています。

どうかひとりで抱え込まないでください。必ず答えや助けが見つかります。

大丈夫ですから!

子育てスキル『マイナス100レベル』のわたしでも、親を卒業できました。

きっとあなたも「元気でね!バイバーイ!」と、旅立つ子どもの背中に笑顔で手を振ることができるようになります!

小さい失敗なんて平気平気。子どもを死なせないように今日いちにちを過ごしたではありませんか!

わたしと一緒に子育てを楽しんでいきましょう!!

参考文献

  • (1)安藤晴美. NICU における低出生体重児の親子関係の形成に関する看護の役割と課題, 埼玉医科大学看護学科紀要, 1(1), p. 19-25, 2008.
  • (2)稲垣由子. ハイリスク児と虐待: 児童虐待に至らないために医療は何ができるか, 小児保健研究, 小児保健と周産期医療:ハイリスク児をめぐって, p. 230-232.